
東日本大震災から15年 「あの日の思い」を振り返る─若手が受け継ぐ「グループの存在意義」
東日本大震災から15年。社員として当時の復旧対応を知らない世代が増える中、BRIDGEでは当時の対応を振り返る座談会を行いました。参加者は若手社員として復旧の最前線に立った井川 純二 さんと松倉 航星 さん、本店から復旧をバックアップした黒須 裕太郎 さん、被災の渦中で入社した髙坂 華林 さん、そして東日本大震災当時は小学生だった保達 洋 さんと山田 和奏 さん。15年という歳月を経て、「原動力」「区切り」「変化」の3つの切り口から語られた内容は、今の私たちの安全・備え・働き方につながるものでした。
「原動力」は何だったのか─先輩の背中、お客さまの安心、仲間への思い
東北電力ネットワーク 総務部(広報・地域交流) 保達 洋 さん(2022年入社)(以下、保達さん)
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保達さん:東日本大震災による被害の中、それぞれの現場で復旧対応をされた3人にお伺いします。当時を振り返ってみて、大変な状況の中でご自身を支えていた「原動力」はどのようなものだったと思いますか。
東北電力 グループ戦略部門 カーボンニュートラル推進ユニット 井川 純二 主査(2009年入社)(以下、井川さん)
東日本大震災当時の所属は福島県にある原町火力発電所(発電環境グループ)。 東日本大震災発生時は、入社2年目。発電所の中央制御室で発電している設備の運転監視中だったが、大津波襲来を受けて、タービン建屋の屋上に避難。そこで、津波が発電所に押し寄せる様子を目にする。その後は、甚大な被害を受けた原町火力発電所の早期復旧に尽力。2号機が翌年11月、1号機が翌々年1月に発電を再開した際、運転員として改めて中央制御室に立った。 現在は2050年カーボンニュートラルの実現に向けた戦略立案でガス火力の脱炭素化検討などを推進している。 (当時のインタビュー)Vol.616 2011年11月号
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(現場─原町火力)尊敬する先輩たちのために

井川さん:「発電所の先輩たちの力になりたい」というような気持ちが強かったと思います。
「電気を作る」って、言葉にするとひと言なんですけど、実際にはとても大きくて複雑な発電設備は、どこか一つ滞っても発電に影響しうるため高い緊張感と知識・経験を持って運用する必要があり、また多くの人が携わることで維持されています。
東日本大震災の当時、私は入社2年目。知識も経験も十分ではありませんでした。しかし、先輩たちが安定運転のため日々経験を重ねて、知識を磨きながら操作にあたっている、そんな後ろ姿に憧れていたので、「先輩たちが守ってきた発電所を復旧させる」ということを1つの目標として、頑張りました。

当時の井川さん(2011年撮影)
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東北電力ネットワーク 横手電力センター 配電工事課 松倉 航星 さん(2009年入社)(以下、松倉さん)
東日本大震災当時の所属は岩手県にある釜石営業所 配電課(技術サービスグループ) 東日本大震災発生時は、入社2年目社員として、直前の3月9日に発生した震度5弱の地震を受けて、営業所の非常持出用具の整理をしていた。津波で浸水した営業所に代わり、急遽、仮設の営業所となった近くの単身寮を拠点に、配電設備の復旧や被災したお客さまへの個別送電など、「電気を届ける」仕事の最前線で尽力した。 現在も配電業務の最前線に立つ。 (当時のインタビュー)Vol.614 2011年9月号
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(現場─釜石・配電)お客さまの安心を、自分の手で

松倉さん:私は「お客さまに一番近いところで仕事をしている」ということが一番大きなモチベーションでした。当時お客さまから受けた相談で覚えているのは「津波被害を受けた自宅だけど、2階は無事だから、何とか送電してくれないか」というもので、発災直後によく受けた種類の相談でした。海水や泥が付着した設備に通電すると、火災などの危険などがあり、安易に送電はできません。しかし、そのお客さまの場合は、現地で設備の状態を丁寧に確認した結果、2階の一部だけですが、送電することができました。お客さまは大変安心された様子で、感謝の言葉もいただきました。「お客さまの安心を自分の手で作る」という、東北電力の仕事のやりがいと責任感を、肌で感じました。

当時の松倉さん(2011年撮影)
東北電力ネットワーク 仙台電力センター 配電工事課 山田 和奏 さん(2022年入社)(以下、山田さん)
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山田さん:私も配電業務に従事しているので、停電から復旧した時に感謝の言葉をいただく喜びはとても良く分かります。一方で、配電業務では、不便な状況にあるお客さまからお叱りを受けることもあります。当時は、極めて深刻な状況に直面しているお客さまも多くいらっしゃったと思うので、厳しいお言葉をいただくことも多かったのではないでしょうか?
松倉さん:…強く言われた記憶は、あまりないですね。街が壊滅的な被害を受けたので、電気がすぐに復旧しないことについても、ある程度ご理解をいただけていたのだと思います。復旧のご要望はさまざまなお客さまからいただきましたが、どの方も、すがるような感じでした。我々も「期待に応えなければ」と思いましたし、現地を確認した結果「送電できません」とお客さまに説明する場合は、とても心が苦しかったです。

保達さん:必死で応えようとする姿が浮かぶようです。後方支援にあたっていた黒須さんの原動力はどのようなものでしたか?
東北電力 総務・地域共創部門 総務・防災ユニット 黒須 裕太郎 主査(2007年入社)(以下、黒須さん)
東日本大震災当時の所属は本店人財部人財サポートセンター(厚生)で、入社4年目。 東日本大震災発生時は休暇中だったが、地震を受けて出社。物流が途絶え、あらゆる物資が不足する中、会社の厚生担当として、本店や被災した事業所などに必要な食料などの確保に奔走。 現在は総務部門の統括担当として、計画・予算の管理や教育の運営などを行っている。 (当時のインタビュー)Vol.620 2012年3月号
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(後方支援─本店・厚生)日に日に湧いた「使命感のようなもの」

黒須さん:じつを言うと、対応に当たっていた最初の頃の気持ちは「担当業務だから」という義務感で、「原動力」と呼べるようなものではありませんでした。しかし、今の(松倉さんの)ような、「一刻も早い復旧のために、社員が身を削りながら対応に当たっている」という話が徐々に伝わってきて、「自分も現場の力になりたい」という、使命感のようなものが湧いてきたのを覚えています。

当時の黒須さん(2011年撮影)
保達さん:黒須さんの原動力は「仲間への思い」だったのですね。

黒須さん:そうですね。とはいえ、本店ビルだけでも1回の食事で1,000食以上が必要で、そこに孤立している被災地の事業所の分も合わせると、とうてい、容易に調達できるものではありませんでした。「100件電話して収穫はゼロ」ということも珍しくなく、それでも諦めずに、職場の皆さんで分担して電話がけをする日々が続きました。
ある時ついに在庫がお米しかなくなって、苦肉の策として人財部総出でおにぎりを提供した際、ある社員から「こんなんじゃ体が持たないよ」と言われてしまったこともありました。そのような中で、食事を提供した際に社員に言われた「今日もどうもね」という言葉は忘れられません。

山田さん:後方支援業務の重要性や大変さが伝わってきます。私は災害対応の際、事務方の皆さんから後方支援をしてもらう立場です。そういった時には積極的に感謝の気持ちを伝えたいと思います。
黒須さん:何気ないひと言かもしれませんが、言われた側にとってはもの凄い支えになります。ぜひともお願いします!
気持ちの「区切り」はどこにあったか─ねぎらい、再建、意思決定
山田さん:東日本大震災からの復旧対応は長期にわたりました。被害は甚大で、先を見通せない時期もあったと思います。皆さんの中で「気持ちの区切り」と言えるようなタイミングはいつでしたか?
東北電力 総務・地域共創部門 地域共創・広報ユニット 髙坂 華林 さん(2011年入社)(以下、髙坂さん)
東日本大震災当時は大学生で、宮城県の仙台市内で東日本大震災に遭う。その後、入社式が中止になり、物資や移動手段が限られる中、初任地であった新潟県の長岡営業所へ向かった。 現在は「地域共想プログラム」などを通じて、地域の活性化に取り組む。
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(新入社員)区切りはつかない

髙坂さん:「気持ちの区切り」と言われると難しいですね。当時、私は大学4年生で、仙台市内で被災しました。大学の卒業式は中止となり、住んでいた部屋はガスが止まったままだったので、一旦実家に戻っていました。そこに東北電力の人財部の方から入社式が中止になるという連絡が入って、同時に「4月1日は新潟県の長岡営業所に着任してほしい」と伝えられました。当時新幹線は動いてなかったので、高速バスなどを駆使して、何とか長岡にたどり着きました。
山田さん:混乱の中での入社だったわけですね。長岡での生活に支障はありませんでしたか?
髙坂さん:はい、不自由を感じることはあまりありませんでした。しかし、それゆえに、被災地とのギャップを強く感じたというのが、正直なところです。自分が被災地を後にして長岡へ行き、普通の生活をしてしまっているという…そういった、後ろめたさのような気持ちがありました。
今でも、東日本大震災に関する情報を目にすると、当時の気持ちに引き戻される感じがします。その意味では「気持ちの区切り」と言えるタイミングは、明確にはないかもしれません。
保達さん:当時は原子力発電所の事故などもあり、電力会社に対する社会の目は非常に厳しいものでした。東日本大震災や、その後の状況を受けて、「東北電力に入社する」という思いに変化はありませんでしたか?

髙坂さん:私は「生まれ育った地域に貢献したい」という気持ちで東北電力を志望したので、就職先を変える考えは全くありませんでした。入社後は被災地の事業所への業務応援から戻ってきた先輩たちの話を聞いて、東北電力の復旧に対する強い使命感に強く心を打たれました。「この会社を選んで良かった」と思うと同時に、新入社員である自分には何もできず、もどかしさを抱えていたことを覚えています。
私は現在、「地域共想プログラム」を担当しています。この制度は、東北・新潟の社会課題解決に取り組む成長意欲のある社会起業家を東北電力が支援・育成し、地域のより良い未来の実現を目指す取り組みです。支援先の社会起業家の方々の中には、東日本大震災を機に事業を起こした方もいらっしゃいます。プログラムの中で、地域課題の解決に向けた多くの挑戦に触れることで、「私の仕事も地域の力になれているのかもしれない」と感じています。その実感が、日々の業務に前向きに取り組む原動力になっています。
山田さん:当時の気持ちが現在の業務とつながっているのですね。黒須さんはいかがですか?
(後方支援─本店・厚生)「おつかれさま」の声

黒須さん:私が覚えているのは、賞与の支給明細を課長から手渡しされる時、課長から「震災対応おつかれさま」と言われたことです。もちろんそこで対応が終わるわけではありません。ですがなぜか、あの時自分の中で、1つの区切りがついたように感じました。
私はその後、異動して福島営業所の広報担当になった際、飯館村の避難指示が解除されるのに合わせて、村民の方が安心して帰還できるようにする取り組みに参加させてもらったり、総務部(防災・危機管理)で当社の災害対応の統括的なポジションを担ったりと、キャリアの中で東日本大震災に関わることが続いています。
(現場─釜石・配電)生活再建、職場の再建、自分の異動

松倉さん:私が覚えている区切りは3つあります。
津波で被害を受けた設備の復旧作業や、それに伴う住宅への個別送電作業がある程度落ち着いてくると、今度は仮設住宅への電気供給申し込みが増えました。電気の供給を開始するためには、最終工程として宅内配線の現地確認が必要なのですが、その作業の申し込みが殺到しました。1日の作業予定が数百件という日も珍しくなく、課内で手分けして対応する日々が続きました。その後、日々の作業件数が減ってきた時に、1つの区切りを感じました。

仮設住宅への送電
もう1つは職場の再建です。釜石営業所は津波の被害を受けたため、近くの単身寮を間借りして、後にその敷地内にプレハブを建て、そこを仮の営業所にしていました。
- 寮の前に設置されたテントによる窓口
- 寮の前に設置されたプレハブ(2011年8月撮影)
東日本大震災から半年以上が経った11月くらいですかね、釜石営業所があった場所に、新しい建物ができたんです。そこに拠点を移した時「また1つ区切りがついたな」と思ったのを覚えています。そして最後の区切りは、東日本大震災翌年の3月、内陸部へ私が異動になったことです。
山田さん:お2人の「最初の区切り」は発災から何カ月か経った後ですね。それまでは「働きづめ」という感じだったのでしょうか?

松倉さん:そうですね。休みは月に1日かそこらといった感じで、それも取りたくて取るのではなく、上司に促されて…という感じです。困っているお客さまの姿を見れば「何とかしなくては」と思うし、復旧に対する感謝の言葉をいただくと、自然と力が湧いてきましたからね(笑)今になって振り返ればもちろん大変な仕事ではあったんですけど、当時は不思議と、そう感じなかったですね。
黒須さん:私も似たような感じです。まず「とにかく、やらなきゃ」という感じで、自分の時間が欲しいという気持ちはありませんでした。

保達さん:全力で復旧対応にあっている会社の雰囲気が、少し分かったような気がします。井川さんはいかがですか?
(現場─原町火力)「復旧」が決まったとき

井川さん:私はお2人とは少し事情が違いました。原町火力発電所は津波による被害が甚大で、「発電所を復旧する」という方針が決まるまでに少し間がありました。その間は、働きづめだったお2人には申し訳ないけれど、出社する先がなく、自宅待機となった日もありました。
- 原町火力発電所外観(2011年4月撮影)
- 3階にあった執務室にも津波が押し寄せた(2011年4月撮影)
保達さん:発電所を復旧することが決まるまでは、どのような状況だったのですか?
井川さん:津波の被害を免れて無事だった単身寮に仮の災害対策本部を設置して、被害状況の確認を進めていきました。ある時は火災などが起きないか交代で監視を行い、ある時は近くにあった原子力発電所の事故の影響で敷地に立ち入れなくなったりと、刻々と変化する状況に翻弄されていたような部分もありました。自分が若手だったということもあり、復旧対応に中々貢献できない悔しさもありましたが、「割り当てられた業務を精一杯やる」ということを心がけました。
その意味で「原町火力発電所の復旧を果たす」という方針が会社で決定された時が、私にとっての区切りといえるかもしれません。

復旧作業が急ピッチで進む原町火力発電所に掲げられたスローガン
東日本大震災が変えたもの─安全意識・備え・仕事観
保達さん:ここまで、東日本大震災当時の生活や業務に関することをお伺いしてきました。最後に、東日本大震災を経て、ご自分の中で一番「変わった」と思うところを教えてください。

緊急事態にこそ「安全に」
井川さん:私は「安全への意識」です。東日本大震災の時、原町火力発電所では地震で発生した火事のため、消防を誘導していた社員が津波の犠牲になってしまいました。安全は普段から大事にしていますが、「緊急事態の時こそ一層重要だ」という認識を持つようになりました。

今を大事に生きる
髙坂さん:「何の前触れもなく日常が崩れる」という経験をしたので、業務も私生活も「今を大事に、一生懸命生きる(行動する)」ということを心がけています。

備えることの大切さ─現場の即応力
松倉さん:私は「備えることの大切さ」を実感しました。災害や停電はいつ起きるか分からないので、私は工具の手入れや、作業に必要な消耗品の補充を欠かさずに行って、いつでも素早い作業ができるようにしています。また、家では万が一の際にもスムーズに避難できるよう、帰ってきたらちゃんと靴を並べるように、子供たちに言い聞かせています。これをやらないと子供4人の靴で玄関が大変なことになるので、それはもう口酸っぱく(笑)

電力会社のDNAと、社員としての誇り
黒須さん:一番変わったのは「インフラを担う電力社員としてのマインド」だと思っています。最初は普段の業務の延長のように考えて対応にあたっていましたが、日夜奮闘している社員の姿を見たり聞いたりして生まれた「自分も何かやって少しでも貢献したい」という気持ちは、電力会社としてのDNAにも通じるものだと思います。後輩たちにもぜひ受け継いでいってほしいと思います。

あとは、「東北電力社員としての誇りが高まった」ということも、大きな変化です。町ごと流されてしまい、文字通り「何もない」絶望感の中で、時間と共に電柱が1本、また1本と立ち上がっていく姿が社内報に載っているのを見たとき、私は目頭が熱くなりました。その時に改めて「東北電力に入って良かった」と思いましたし、その気持ちは今でも自分の支えの1つになっています。
- 宮城県女川町にて(2011年3月撮影)
- 岩手県釜石市にて(2011年3月撮影)
山田さん:皆さんがそれぞれの立場で必死に取り組まれていたこと、そして事務方と現場の連携の強さが良く分かりました。私も先輩方のひたむきな姿勢を受け継ぎ、非常時にこそ冷静に、チームワークを発揮したいと思います。ありがとうございました。
保達さん:先輩社員の皆さんが当時とても強い思いを持っていたこと、また社員が一丸となって復旧作業や支援に取り組んでいたことを、改めて実感しました。「地域の暮らしを支える」東北電力グループの事業に改めて誇りと責任感を感じました。本日はありがとうございました。

左から山田さん、髙坂さん、黒須さん、井川さん、松倉さん、保達さん
それぞれの言葉で語られた「東北電力グループの存在価値」
東日本大震災から15年が経過しようとしています。
「千年に一度」と言われた災害による甚大な被害の中にあっても、東北電力は発災から3日間で約8割の停電を解消するなど、会社として大きな力を発揮しました。これは、社員が「何としても電気を届ける」という会社の使命で互いにつながっていたからです。
それから、15年。当時の経験を持つ社員が年々減少していく中で、あの時に会社を支えた使命感をいかに維持していくか。そういった意識からスタートしたのが、今回の座談会企画でした。
今回の座談会には、震災後に入社した若手社員の代表として、保達さんと山田さんに参加いただきました。若い世代の社員にも当時の復旧対応の話を身近に感じてもらうために、座談会のテーマは「2人が感じた率直な疑問」に設定。事前の打ち合わせで2人は、当時復旧対応にあたった社員の気持ちについて思いを巡らせましたが、その中でも特に「社員1人1人の奮闘を支えた心の拠りどころや、当時の率直な気持ち」に着目。座談会では「個人の原動力」「気持ちの区切り」「自分の変化」という3つの切り口で質問することにしました。

事前に資料を読みながら当時の状況を想像する保達さん(左)と山田さん(右)
そして迎えた座談会当日。質問を受けた黒須さん、井川さん、松倉さん、髙坂さんは、15年前の記憶を手繰り寄せながら、それぞれの言葉で、思いを語ってくれました。時に言葉を探し、あるいは声を詰まらせながら話す4人の姿からは、強い使命感や社員としての誇り、そして後輩に寄せる温かな期待が感じられました。
所属も業務も全く異なる4名でしたが、語った内容に共通していたのはいずれも「東北・新潟に寄り添い、再び明かりを灯したい。そのために自分ができることを頑張りたい」というひたむきな気持ち。それはまさしく「東北電力グループの存在意義」に通じるものだと思いました。






