
これまでの思い出
──初任地と最初の業務を教えてください。
最初の配属は女川原子力発電所の試運転課というところでした。
入社した昭和58年(1983年)は1号機運転開始の1年前で、発電所建設の最終段階というタイミングでしたので職場には活気があふれていました。東北電力初の原子力発電所ではありましたが、先行他社である日本原子力発電の敦賀発電所や東海第2発電所などで現場を学んできた先輩方が周囲にたくさんいて、私はついていくのに必死でした。
- 女川1号機運開当時の様子(東北電力1984年11号より)
──女川での生活はいかがでしたか。
入社当時、会社の寮に空きがなく、私は発電所のすぐ近く、夏浜というところに鹿島建設さんが作った簡易の宿舎に半年ほど住んでいました。海が目の前で自然環境は良かったですけど、街に出るには本数の少ないバスかタクシーに乗らなくてはならず、車も持っていない新入社員にとっては少々大変でした(笑)
──これまでの経歴や、社内で携わられてきた取り組みの中で、心に残っていることを教えてください。
女川2号機は本店で設計、現地で建設と試運転、さらに営業運転まで携わった一番思い入れのあるプラントです。
- 女川2号機建設所時代の青木本部長
- 1995年4月4日、定格出力に到達した女川2号機の中央制御室で(左から3人目が青木本部長)
その中でも強く記憶に残っているのは1994年12月の女川2号機の緊急停止です。
当時の女川2号機は試運転中で、私は運転員として制御盤の中央に座っていました。手渡された手順書に従って試験を実行したら、警報の表示が出たんです。手順上は出るはずがない警報を前に、目の前の状況を信じることができず、茫然としてしまいました。
- 女川2号機試運転当時の中央制御盤
直後「スクラムしているぞ!早く対応しろ」と後方の発電課長から声が飛んできて、はっと我に返り、そこからは冷静に対応することができました。
今にしてみればそんなの実行する前にちょっと考えれば分かるじゃないかと思うんですけど、実はその時使用した手順書はプラントが停止している際に使用するべきもので、それでも当時の私は鵜呑みにしてしまった。高い代償を支払いましたが、今の自分を支える貴重な経験だったと思っています。
また、入社以来ほとんどの期間原子力の仕事をしてきましたが、2年間だけ技術部の給電課、今でいう電力システム部に所属していたことがあります。右も左も分からないような状態でしたが周りの人に色々と教えてもらいながら、供給計画の作成などを行いました。全社の業務に関係するような仕事に携われて、原子力以外の人ともつながりができました。良い経験をさせてもらったと思っています。
「いっそう稼ぐために」青木原子力本部長の抱負
──原子力本部長に就任してのお気持ちを教えてください。
重い責任を感じています。
女川2号機は再稼働しましたが、まだ東通1号機と女川3号機が残っています。これらを再稼働させるための計画をしっかり作成しなければならないと思っています。

──女川2号機の再稼働対応を振り返っていかがですか。
新規制基準の審査対応を始めた頃は何もかもが手探りで、とにかく大変で、先が見えませんでした。東京の事務所に原子力部門から100人以上が集まって対応し、事務系の皆さんにも審査資料の準備など多くの応援をいただきました。その意味で女川2号機の「BWR再稼働一番手」は関係する部門だけではなく、東北電力グループ全体で成し遂げたことだと思っています。

審査対応事務所(東京)
──「BWR再稼働一番手」というのは世の中の関心も高い話題でした。女川2号機がその座についたことについて、どのように見ていますか。
まず前提として社員の皆さんが「横の強さ」を発揮して懸命に対応にあたってくれたことが大きいですが、それに加えて事前の地元了解が滞りなく得られたことは、これまで先輩たちが長年にわたって築いてきた地域との信頼関係、つまり「縦の強さ」によるところも大きかったと思います。
これまでは先行他社の後ろについていくことも多かったように思う東北電力ですが、今回は地道に愚直に努力を続けていくことにより一番でゴールすることができました。社員の皆さんにはぜひ自信と誇りを持ってほしいと思います。
──中長期ビジョンのターゲットである2030年代に向けて、原子力本部として取り組む課題は何ですか。
原子力部門は女川2号機が営業運転を再開したことで「稼ぎ」を産み出せるようになりました。今後はいっそう稼ぐために、一人ひとりがコストを意識して業務に当たることが重要だと考えています。
女川2号機については安定運転はもちろん、定期検査の短縮や長期サイクル運転、オンライン(運転中)メンテナンスといった取り組みにも挑戦していきたいです。部門の皆さんには「日本のBWRは自分たちが引っ張っていくんだ」という気概を持って、果敢にチャレンジしてほしいと思っています。
- 女川2号機運開当時の女川原子力発電所
- 現在の女川原子力発電所(2024年6月撮影)
また現在まだ研究段階にある技術や次世代革新炉のような将来の発電設備について、若い人たちが自分事としてイメージできるような機会を持てたらいいなと思っています。「どうしてこういう構造になっているんだろう」あるいは「自分だったらこう設計する」とか、そういう「夢」を持ちながら日々の仕事に取り組めるようにしてあげたいですね。

──それは女川2号機の建設に携わった経験からですか。
そうですね、何もないところから日々完成形に向かって進めていく仕事というのは非常に面白いし、やりがいがあります。
今の若い人たちにもぜひそういう経験をさせてあげたいという気持ちがあります。
──部門の社員に期待することを教えてください。
シンプルなことですが、どんなことにでも興味を持ってもらいたいということに尽きます。
疑問に思い、自ら調べたり研究して得たことはしっかりと自分の身に付きますし、なかなか忘れません。
私は女川2号機の建設の際、とにかく現場に行って実物を見ながらメーカーの人たちと話をするようにしていました。そうしていくうちに、原子力発電所についての理解がどんどん深まりました。
- 1993年5月28日、女川2号機建設現場で(左から4人目が青木本部長)。後方のブルーの筒が圧力容器
休日の過ごし方
──休日の過ごし方やご趣味を教えてください。
休日は時間があると音楽を聴いて過ごすことが多いです。聴くのはもっぱらユーミン(松任谷由実)です。中学生か高校生の時にラジオで初めてユーミンの曲を耳にして、その頃に流行していた他の曲とは一線を画すような独特な世界観や詩、声に惹かれてずっと聴いています。
あとはずっと続けている趣味として野球観戦があります。子供の頃から阪神タイガースのファンで、当時非常に強かった読売ジャイアンツに勝つことができるほぼ唯一のチームということで憧れたのが始まりです。地元の球団と言えば東北楽天ゴールデンイーグルスですが、毎年行われるセ・リーグとパ・リーグの交流戦ではタイガースと交互に互いのホームで対戦していて、私にとっては仙台でタイガースを見ることができる貴重なチャンスになっています。今年がまさにその年で、現地で観戦するべくチケットを確保しました。

【新社長・新副社長インタビューは以下リンクから】
髙野社長インタビュー -変化する時代の中で大切にしたいこと-



