増子会長インタビュー(前編)

 4月1日に就任した増子会長へのインタビューをお届けします。前編では幼少期から東日本大震災までの歩みを、後編では会長に就任しての思いを、そして最後には一問一答動画も掲載しますので、お楽しみに。

身近なヒーローは電力マン ~生い立ち~

(ご出身と生まれ育った地域の雰囲気などについて教えてください)

 

 岩手県一関市の出身です。家族は祖父母、国鉄職員の父、そして母、兄と姉の7人家族で、私は3人兄弟の末っ子で育ちました。母からは、私の生まれる前に、2年連続で北上川と支流の磐井川が台風により氾濫したということをよく聞かされ、自然災害、特に水害への危機意識を持って育ちました。

 我が家は、当時としては割と早くテレビが入り、ご近所の方もやってきて一緒にプロレスや西部劇、チャンバラなどを見ていました。夕方になると電圧が低下し、ブラウン管テレビだったため画面がグーっと小さくなったことを覚えています。それから、当時は台風や嵐が来るとよく停電していました。娯楽の少ない時代でしたので、テレビが見られないとなると一大事です。みんな表に出て、電気がつくのを待っていました。そこに、バイクに乗ったおじさんが颯爽と現れ(東北電力との初めての出会い)、あっという間に電柱に昇って作業すると、パッと電気がつきました。そしてみんなが拍手。本当にヒーローに思えました。

 それから、夏になると地区でバスを仕立てて、高田松原や大谷海岸、気仙沼大島に海水浴に行っていました。東日本大震災で大きな被害を受けたのは、とてもショックでした。

バスケットボールと夢のエネルギー ~学生時代の思い出~

(学生時代はどのような生活を送っていましたか)

 

 中学生の頃からバスケットボールに熱中し、高校・大学とずっとバスケットボールをやっていました。高校時代は岩手県で優勝して、インターハイにも出場しました。

 何かの雑誌で、原子力という夢のエネルギーが存在する、という記事を読み、小学校、中学校くらいから原子力に非常に興味を持ち、勉強したいと思って大学に進んだのですが、大学でもバスケットボール中心の生活になりました。北海道で2位となり、大学選手権にも出場でき、とても良い思い出になりました。

 大学では、2年生の夏が終わってから学部学科を選択することになっていました。希望が叶って原子工学科に進み、材料の研究として、水素を金属に吸収させ水素エネルギーの貯蔵に使う研究をしました。原子炉の材料は水素を吸収すると脆くなるのですが、マイナスじゃなくてプラス側の発想で研究をしていました。

 卒業後は、原子力発電の仕事に携わりたいと考えていましたが、教授から「君は東北出身だから東北電力に行ったらいいんじゃないか」と強く推薦され、当社を志望しました。就職が決まると、両親は地元に戻ってくることをとても喜んでくれました。教授には感謝しかありません。

現場、現物の大事さ、面白さを実感 ~入社直後の日本原子力発電出向~

(新入社員時代の印象的なエピソードや、当時の仕事に対する姿勢や心掛けていたことを教えてください)

 

 入社は本店原子力部原子力技術課です。当時は女川1号機が建設中で、原子力発電の現場はまだ当社にはありませんでした。出向で現場経験がある職場の先輩方の話についていけず、上司との面談の度に現場に行かせてほしいと訴え、入社から1年弱で、日本原子力発電敦賀発電所への出向が叶いました。

 書物で読んだり、他の人から聞いたりしても実感がなかなか湧かなかったものが、現場に行って、ものに触れて、自分の目で見て。そうすると実感が湧いて、例えばこの機器はなんの目的で作られているんだろう?故障するとどうなるんだろう?いろいろな警報があるのですが、その設定ってどうしてその設定値にされているんだろう?とかですね。そういうことを勉強すると、ますます面白くなってきて、敦賀に2年間いましたが、非常に充実していましたね。やっぱり、現物に触れる。現物を見られる。実際に見ないといけないと思いました。

 それから、私を温かく迎え入れ、教えて下さった日本原子力発電の方々は、我が国初の軽水炉として、建設・試運転を行っていた頃に当社から出向した先輩に、お世話になったのだそうです。そんな「人のつながりの大切さ」も、この出向を通じて学びました。

 話は戻りますが、出向直前の1980年(昭和55年)の年末には55豪雪があり、仙台市内も停電しました。徹夜で非常対策本部会議の資料をコピーし、当時住んでいた中山寮に戻ると、寮にかかってくる苦情の電話に対応しながら、電気が止まった時の影響の大きさ、当社の仕事の重要さを実感しました。

地域にとっても初の原子力発電所、女川1号機の運転員として

(女川1号機運用開始前後の印象に残っているエピソードを教えてください)

 

 敦賀発電所の次は、女川1号機の試運転に携わりました。その頃に結婚し、町はずれの借家に住むことになりました。3交替勤務だったので、日中在宅のことが多く、そんな時に雪が降ると、近所の方と一緒に道の除雪に汗を流しました。除雪が終わると区長さんの家に呼ばれてアイスコーヒーをご馳走になりながらいろいろなお話をして。地域の方々も、初めての原子力発電所ということで、いろいろ心配してアドバイスをくれました。ありがたく、地域とのお付き合いは本当に重要だなと思いましたね。

 運転員としては、トラブルをいち早く察知してそれをきちんと収束させるという、そういった操作に心掛けなければなりません。当時福島にあったBWR訓練センターのシミュレーターで研修を受けて、通常時の操作、トラブルのリカバリー操作を訓練し、勉強して自信がつきました。それでも、夜勤になると、トラブルがあったら、と思うと怖かったことを覚えています。とにかく、いろいろなトラブルを想像しながら、こうなったらどうしようか、と、イメージトレーニングを重ねていました。

 そのおかげで、営業運転開始から約1年後の第1回定期検査では、私が入った担当直で、原子炉自動停止という初めてのトラブルが発生しましたが、イメージ通り、しっかり対応できたと思っています。

仕事は明るく、楽しく、前向きに ~管理職として、チームワークを大切にする~

(管理職になられてから、マネジメントする上で心掛けていたことは何ですか)

 

 やはりチームワークが重要だと思います。運転というのは決して1人ではできないので、お互いカバーしながら対応していくということを心掛けていました。新入社員が入ってきて、即戦力に育てるときも、私が直接新入社員に言うのではなく、まずは先輩社員に言って、先輩社員が新入社員を教育して育てるようにしていました。

 それと、仕事は明るく、楽しく、前向きに、ということを常々言っていました。くよくよするなと。とにかく明るく前向きに行こうぜ、と、声をかけていました。そして、仕事は楽しく。沈んでやっていたら良いことないですよね。「何とかなるから頑張ろう」そんな掛け声をかけて、励ましながら取り組んでいました。

地域との信頼関係と事前の備えの大切さ ~東日本大震災の経験~

(女川の所長代理として心掛けたこと、東日本大震災を経験して得た教訓などについて教えてください)

 

 震災前、副所長や所長代理として女川に勤務していた際には、地域の方々のところにもよく顔を出すようにしていました。婦人会の方と花壇づくりをして、一緒にご飯を食べながら懇談して。だんだん名前も顔も覚えてくれて、朝、通勤していると遠くから「あ、増子さーん」なんて手を振ってくれるのですね。非常に嬉しかったです。

 その方々を発電所見学にご案内して、原子炉建屋を「こんなに頑丈にできているんですよ。地震なんか起きてもびくともしない。何かあったら、ここに逃げ込めば大丈夫」と話をしていたら、間もなく東日本大震災が起き、地域の方々が避難してこられました。「発電所に行けば安全だと思った」ということを言ってくださいましたが、物理的な安全性だけでなく、顔が見えている安心感、日頃の信頼関係があったからこそ、我々を信じて避難されたと思っています。

 当時の発電所所員は、1号機は火災、2号機は浸水というトラブルの中、また、津波が来た後は電話がつながらず、家族の安否が確認できない中で、本当に頑張ってくれました。頭が下がる思いです。あらためて、仕事は一人ではできないこと、それから、敷地高さの決定や事務所の耐震工事といった点はもとより、緊急時に誰が何を一番よく知っているか、誰に何を任せれば良いのかを常日頃から考えておくといった事前の備えの重要性を痛感しました。

 再稼働に向けても、安全性の向上はもちろんですが、顔の見える発電所でなければならない、信頼のおける人たちが運転しているのだと、そう思っていただける発電所でなければならないと考えています。

(聞き手:ソーシャルコミュニケーション部門コミュニケーション企画ユニット 高橋)

以下、後編に続く

イイね!
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