「朝の来ない夜はない」~海輪相談役インタビュー~

 震災から10年。東北電力のトップとして震災を乗り越えた海輪相談役のインタビューを全10回シリーズで連載していきます(「公研11月号」記事を再掲載しています)

二人で仙台の街を何時間も歩き回る

── 奥様とは仙台で出会われたそうですが、きっかけは?

 寮のサークル活動です。入寮すると自治委員会が勝手に決めた部屋割りで所属サークルが決まり、二段ベッドの相部屋でメンバーが生活を共にする仕組みでした。私の入ったサークルは、「例会」と称してフォークダンス講習会の運営ノルマがあるんです。これは寮の食堂でやるんですが近隣のいくつかの女子寮からも参加します。1年生は先輩から直前特訓を受け、当日は覚束ない足もとで踊るんですが、私が生涯の伴侶と出会ったのも、その最初の例会でした。
 彼女は、秋田県横手市から仙台の女子大に進学し市内の寮に入っていました。初めて出会った時からなぜか話が合い、私は彼女の屈託ない笑顔や明るい性格に惹かれ、彼女は私を「ひょろっと背が高く、東京弁が好ましかった。父親と正反対のタイプ」と思ったそうです。
 お互い話し好きで、何時間も仙台の街を歩き回るのが定番でした。そのせいか結婚してからも友だち感覚が抜けません。これまでの人生、家庭や会社で様々なトラブルもありましたが、いつも一緒に相談して乗り越えてきました。「夫婦」より「戦友」という言葉がぴったりする仲だと思います。

結婚した頃(妻の実家、横手市で)

「海輪」姓を継いでほしい

── 東北電力を志願された理由は?

 あの頃は高度成長期、学生の売り手市場で、友人の多くが東京の華やかな大手企業に就職していきましたが、私は仙台の暮らしが性に合っていましたし、「別世界で自立=東京に戻らない」と決めていたので、地元の雄、東北電力を第一候補にしました。
 面接で聞かれたのは、「なぜ東京の人間が東北電力なのか。学生活動家ではないか」の一点に絞られましたが、「大学に入って仙台・東北が好きになった。東京を離れ自立するのが昔からの夢」と説明し、何とか合格できました。
 実は就職活動と同時期に結婚話も進んでいました。彼女は一人っ子で親元の秋田から遠く離れたくないという事情もありましたし、ご両親に結婚を申し込みにいくと、『海輪』姓を継いでほしいと逆にお願いされてしまいます。東北では1軒しか残っていなかったんです。
 その時の私の心境は、「東京を離れ、名前も変わって二人で新しい生活を始める。これこそ自分の願ってきたことではないか」との思いでした。私の両親には「法律上、男女どちらの姓を名乗るかは自由」などと屁理屈を言って説得しましたが、長く付き合っているのもわかっていたので、結局は認めてくれました。母は息子をとられた気分になったかもしれませんが…。
 そんなこんなで東北電力入社と同時に結婚して、新生活がスタートしました。

 

── 入社と同じタイミングだったのですね。

 そうです。初任地は岩手県の水沢(現・奥州市)と言われたので、人事課長さんに「結婚してから赴任したいので社宅をもらえませんか?」と相談したら、「前代未聞だよ!」の一言。ところが、部下の主任が親切な方で「社宅はダメだが補助料を支給するので現地で貸家を紹介してもらおう」と取り計らってくれました。そして「結婚式なら当社の関係するホテル(電力ビル内にあった仙台グランドホテル)で挙げなさい。社員割引になるよ」と言って、手続きまでしてくれたうえに、披露宴に飛び入り「さんさ時雨」で祝っていただきました。社会人のイロハも知らない私たちには本当にありがたく、東北人の温かさを感じて、つくづく良い会社に入ったと二人で話しました。

 

水沢営業所の人たちと(慰安旅行)

 

次回「子持ちの青年部長」へ続く

 

これまでの連載

第1回「2011年3月11日14時46分」
第2回「別世界で暮らしたい」
第3回「肺結核で1年半の病院通い」

第5回「子持ちの青年部長」

第6回「基幹システムの設計を任される」「東北・新潟地域にメリットを残す」

第7回「みんなに助けられた新潟県中越沖地震」「情報伝達の壁を取り去る」

第8回「車中の仮眠なら夜明けとともに作業できる」「社員のやる気を失わせまいと考えた」

第9回「電力システム改革に抱いた懸念」「それでも地域にこだわる」

第10回「東北はもっと怒っていい」

イイね!
ページトップへ戻る