
2011年3月11日14時46分
── 東日本大震災から10年が経ちました。この10年で真っ先に思い浮かぶ場面をお聞かせください。
大震災の日、中部国際空港ロビーで見た「仙台空港が津波に襲われているテレビ映像」と新潟行きの飛行機から見た「山形県境の飯豊連峰が雪雲に覆われている景色」ですね。
2011年3月11日14時46分、私は中部国際空港から市内に向かう車中でした。「ブー。ブーッ」という容易ならざる携帯音で地震発生を知り、直ちに空港に引き返しました。しかし、仙台便はすでに滑走路に出て待機中、東北方面で唯一残っていた新潟便に乗ることを決めました。
搭乗手続きを終え、ロビーで見たテレビ画面にショックを受けることになります。まさに仙台空港が津波に襲われるところだったんです。海岸沿いの田畑がすごいスピードで津波に呑み込まれ、空港では飛行機や車も流されている。事態の深刻さを一瞬で理解しましたね。「とにかく早く帰らなければ」と焦りを感じたことをよく覚えています。

東日本大震災で被災した仙台空港
出所:名取市
まだ明るさの残る夕刻に中部国際空港を発ちましたが、新潟市に近づくにつれて、飯豊連峰辺りが雪雲に黒く覆われているのが見えてきました。「山を越えた東北は雪なのか」と想像し、暗澹たる気持ちになったのを覚えています。
新潟空港からは、ヘリで仙台に戻ろうと考えていましたが、悪天候で有視界飛行ができないと聞き、やむなく新潟支店に直行します。テレビ会議で本店非常災害対策本部会議に出席して、チャーターした車で夜更けに出発、翌日の午前4時にようやく仙台に戻ることができました。
── あの状況で翌日未明に戻れたのは、すごい速さですね。最短経路を選択できた。
新潟便に搭乗できたのが幸いしましたね。「新潟に入れば何とかなる」という思いもありました。2年前まで新潟支店長で土地勘がありましたから、すぐに決断できたんです。当時の状況としては最速の行程で仙台に戻り、災害対応の指揮を執れたと思います。新幹線や車を乗り継ぐ案も浮かびましたが、実際は新幹線も途中でストップし、東京も大混乱でした。とても当日中に本部会議に出席することはできなかったでしょう。
大規模災害で、トップの不在は致命的になりかねませんから、とにかく一刻も早く本部に入ることを意識しました。もちろん初動は現場第一線の使命、マニュアルや訓練で身につけたスキルで即応するのが第一義。トップの出番はその後です。各部門や外部から集まる情報を総合判断して対策の優先順位を示さなければなりません。

災害対策本部で指揮を執る
部門・部署ごとに最善を尽くしているつもりでも、お客さま目線で社会的に許されるかどうか。そこまで含めて最終的に指示できるのはトップしかいません。難しい局面になればなるほど、部下は迅速な決断・指示を待っています。ましてや、緊急事態進行中に本部を空けて現場に向かうなど、あり得ないことでしょう。
次回「別世界で暮らしたい」へ続く
これまでの連載
第3回「肺結核で1年半の病院通い」「人生最初の岐路になった大学受験」
第4回「二人で仙台の街を何時間も歩き回る」「「海輪」姓を継いでほしい」
第6回「基幹システムの設計を任される」「東北・新潟地域にメリットを残す」
第7回「みんなに助けられた新潟県中越沖地震」「情報伝達の壁を取り去る」
第8回「車中の仮眠なら夜明けとともに作業できる」「社員のやる気を失わせまいと考えた」