「朝の来ない夜はない」~海輪相談役インタビュー~

 震災から10年。東北電力のトップとして震災を乗り越えた海輪相談役のインタビューを全10回シリーズで連載していきます(「公研11月号」記事を再掲載しています)

肺結核で1年半の病院通い

── 都立上野高校に進学されます。

 当時の上野高校は、学区内のトップで歴史ある名門校でした。校舎は、上野公園に隣合わせ、動物園や東京芸大の裏手に位置する素晴らしい環境なのでなおさら憧れましたね。ただ戦後ベビーブームの団塊世代が受験期を迎えていて、入試は相当難しかったんですが、何とか滑り込むことができました。
 入学後、全員が何かの部活に入らなければならない決まりでした。私は体力に自信がなかったので一番楽そうに見えた卓球部に入ったんです。ところが暫くはゲームをさせてもらえず、ランニングやハードなトレーニングばかり。受験でなまっていた身体にはきつかったのでしょうか、1年もたずに肺結核になって休部してしまいます。本当に情けなかったですね。
 幸いに初期段階でしたので入院せず薬で治すことになり、月に一度の病院通いを1年半続けました。人生観というと大げさですが、人の生き方や見方が多少変わった気がします。病人の立場になると、世の中が違って見えてくるんです。
 病も癒えた高3の受験では、無謀にも東大しか受けず、あえなく不合格。実はその時、文Ⅲ(文学部)を志望したんです。高3のクラス担任でもあった世界史の先生が素晴らしい方で、高校では珍しい90分授業でしたが、歴史上の人物への思いがこもった白熱授業に聞きほれました。東大西洋史卒のその先生に憧れて、自分も歴史を勉強して、将来は研究者になるのも良いかなと考えるようになったんです。
 当時、井上靖の『楼蘭』なども好んで読んでいたので、シルクロード研究なんかはロマンがあると漠然とした思いも抱いていました。それが、一浪して東北大を受験する時に「文学部では飯食っていけないぞ」と友人から諭されて、法学部に変節してしまいます。別世界で生きて行くには、まずは生活できるようにならなければなりませんから…。

人生最初の岐路になった大学受験

── なぜ東北大学を選ばれたのですか?

 大学紛争の影響ですね。浪人していたのが1968年ですから嵐は燃え盛るばかり、東大はじめ多くの大学入試が中止になったんです。東大安田講堂事件もこの冬の出来事です。私は家の経済的な事情もありましたから、二浪や私大はダメ、飛行機で行くような遠方の大学も候補となりません。消去法で上野から東北本線で行ける仙台に決めました。それに高校のあった上野は東北本線の始発だし、北千住は奥州街道の起点ですから、東北に対してなんとなくシンパシーを感じていたのだと思います。
 今振り返ればその後、仙台で妻と出会い結婚し、東北電力に就職するなど現在の私につながる一本道があります。この時の大学受験の選択が、私の人生最初の岐路だったと思います。

 

1965年頃の文系学部

 

── 仙台での日々の印象は?

 入学手続きのため仙台駅に着いた時は、背中に羽根が生えたような解放感と喜びを感じましたね。でも、学生生活は家からの仕送り1万円と奨学金8千円が毎月の収入のベースです。当時の国立大学授業料は月千円で安くて助かったのですが、生活するには全然足りず、一番安い学生寮に入り、残りはアルバイトで補充するしかありませんでした。
 入学当初は、東京から地方に波及した大学紛争が激しくなっていました。教養部の事務棟やいくつかの教室は封鎖され、活動家がタテカンの前でアジ演説をしていて、授業どころの雰囲気ではありません。私自身はノンポリでしたが、「学費値上げ反対」の趣旨に賛同し集会とデモに参加したことがありました。ところが、大学構内を出て道路でジグザグデモを始めたら、いつの間にか前方に押し出され、目の前に機動隊が迫ってきて怖い思いをしたこともありましたね。
 2年間の教養部時代は、寮やクラスの仲間と遊んだり、アルバイトの資金で東北や北海道旅行に出かけたりもしたので、授業の出席率は悪くスレスレの成績で終えることになりました。学部に進む段になって急に「このままではダメだ」と心をあらため、司法試験をめざすことにします。教室に通いやすいよう大学正門前の下宿に間借りして勉強を始めましたが、鍵もかからない部屋でしたので、いつのまにか学友のたまり場になってしまいました(笑)。それに、当時の司法試験は「狭き門」で苦節10年当たり前と言われ、4年で卒業しなければと考えると自分の出遅れが絶望的に思えて、「とりあえず就職」へとカジを切り直しました。
 司法試験では挫折感を味わいましたが、仙台の街はとても気に入りました。広瀬川や青葉山という自然環境も良いし、町の人は学生に対して寛容で親切なところもあって暮らしやすい。いつしか「このまま仙台で暮らしても良いかな」と思うようになっていましたね。

 

広瀬川と仙台の街並み

 

次回「二人で仙台の街を何時間も歩き回る、「海輪」姓を継いでほしい」へ続く

 

これまでの連載

第1回「2011年3月11日14時46分」

第2回「別世界で暮らしたい」

第4回「二人で仙台の街を何時間も歩き回る」「「海輪」姓を継いでほしい」

第5回「子持ちの青年部長」

第6回「基幹システムの設計を任される」「東北・新潟地域にメリットを残す」

第7回「みんなに助けられた新潟県中越沖地震」「情報伝達の壁を取り去る」

第8回「車中の仮眠なら夜明けとともに作業できる」「社員のやる気を失わせまいと考えた」

第9回「電力システム改革に抱いた懸念」「それでも地域にこだわる」

第10回「東北はもっと怒っていい」

イイね!
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