「朝の来ない夜はない」~海輪相談役インタビュー~

 震災から10年。東北電力のトップとして震災を乗り越えた海輪相談役のインタビューを全10回シリーズで連載していきます(「公研11月号」記事を再掲載しています)

車中の仮眠なら夜明けとともに作業できる

── あの時は、東京電力・柏崎刈羽原子力発電所で起きた火災も印象に残っています。

 あの火災は反面教師の教訓になりました。地震で原子力建屋外の変圧器で火災が発生したんですが、黒煙が上がる映像がテレビで何時間も流れ続けましたよね。でも東京電力からコメントが出てこないので、住民や視聴者に不安を抱かせました。専門技術者からすると、原子力事故ではないから大丈夫としていたのかもしれませんが、世の中には原子力に対する不安が常にあるんですから、早く安心情報を出すべきだったと思います。新潟ではこの時の不信感が根強く残って、柏崎刈羽原子力発電所の停止期間が長引く要因となりました。原子力の情報は「速やかな公開が何よりも重要」という教訓です。私が社長になってからも必ず「当社は大丈夫か?」と見るようになりました。
 そんなことも含めて、新潟県中越沖地震は、私自身が現場の重要性を再認識する機会になりました。ずっと本店にいては、このような現場第一線の感覚とか使命感を実感することもできなかったと思います。
 記憶に残るエピソードがあります。発災後直ぐに応援隊が現地に入りますが、支店本部は宿泊先として近くの旅館をいくつか手配しました。ところが結局は、ほとんど利用されませんでした。「現場と宿泊先を移動する時間が惜しい。車中の仮眠なら夜明けとともに作業できる」との言葉を後から聞いて、その強い使命感に感銘を受けました。また、現場支援は机上の独りよがりになってはいけないとも感じましたね。
 そういう現場の努力もあって、結果的には3日で全戸送電を達成し、その後被災地を慰問された天皇、皇后両陛下から会社を代表して直接「ねぎらいのお言葉」をいただいたことも貴重な思い出です。

 

── 現場の使命感によって安定供給が維持されている。頭が下がる思いです。

 その経験が現場社員との膝詰め対話を始める動機の一つになりました。支店長時代を通じて、営業所、発電所、技術センターなど第一線事業所を頻繁に訪問しました。対話のスタイルも①所員全員に挨拶、②幹部管理職を入れない少人数対話、③その後居酒屋での懇親──を3点セットに県内全事業所を2年間で1周半しました。配電作業職のベテラン社員には「長く勤めてきたが、支店長と膝を突き合わせて飲むのは初めてだ。家族に報告したいので写真を撮って良いか?」という方もいて、現場と支店の距離を改めて感じました。
 ということは、本店はもっと遠いわけです。社長に就任してからも第一線事業所との対話を極力続けてきました。100を超える事業所を訪問し、訪れていない事業所は数えるほどしかありません。そして現場を訪ね対話を重ねることで、多くの社員をナマで知ることができました。大震災の時もそうでしたが、何か災害や事故が起きると「あそこは彼がいるから大丈夫」「今頃、自治体対応で苦労しているんだろうな」とか現場への想像力を持てたのは大きな副次効果でした。
 支店長時代の経験は、後に社長として遭遇する東日本大震災の危機管理に本当に役立ちました。逆に言えば、私にとって新潟県中越沖地震は東日本大震災の準備をさせるためだったのかと、運命的なめぐり合わせも感じます。

 

社員のやる気を失わせまいと考えた

── 2010年6月に東北電力社長に就任します。

 就任してから1年も経たない翌年3月に東日本大震災です。以来、社長会長の10年余り、震災からの復興と経営の回復に追われることになります。発災後、自宅に初めて着替えに戻った時、妻から「これはあなたの運命よ。家のことは気にしないで頑張って!」と言われたことを未だに覚えています。
 3・11当日の本部会議では、「我々はこれまで多くの災害を経験し、訓練も積んできた。今はその成果を出すとき、落ち着いて対応すれば必ず乗り切れる」と呼びかけました。厳しい環境で復旧に立ち向かう社員へのメッセージでしたが、自分自身を落ち着かせる意味もありました。
 陸の孤島となった当社女川原子力発電所に対しては、「現場での判断が最優先、本店は支援に徹する」と宣言して、担当副社長にヘリで現地支援に入ってもらいました。新潟での経験から現場が何よりも大切という意識が常にあったからです。
 しかし、「千年に一度」と言われた東日本大震災です。最大震度7の地震と大津波で甚大な設備被害をもたらしました。太平洋側の発電所はすべて被災して発電能力の1/2が消えました。送配電ネットワークもズタズタで、お客さまの7割にあたる約486万戸が停電する大災害でした。
 それだけでも大変なところに、東京電力福島第一原子力発電所事故が発生し、全国の原子力発電所が次々と停止、福島はじめ被災地の復興に長く暗い影を及ぼしたのです。
 あの2011年は、大震災の他にもお正月に雪害、7月末に新潟・福島豪雨があり、本当にひどい1年でした。こんな状況を、私は「五重苦」──電力需要の減少、供給設備の被災、東京電力福島第一原子力発電所事故、当社原子力発電所の長期停止、豪雨災害──と表現して「今はどん底だが、朝の来ない夜はない。一つひとつ乗り越えていこう!」と社員に呼びかけました。東京電力福島第一原子力発電所事故や輪番停電で社会からは電力バッシングも吹き荒れていましたから、社員のやる気を失わせまいと考えた末でした。
 震災時の社員の活躍は、たくさんエピソードがあってお話をすれば切りがありません。被災した沿岸部事業所はひどい環境の中で復旧作業や住民対応をこなしました。いち早く駆け付けた新潟はじめ各地からの応援隊も不眠不休でがんばりました。
 震源に最も近かった当社女川原子力発電所は当日中に安全停止させたうえ、周辺住民の避難も受け入れました。津波で壊滅的な被害を受けた当社原町火力発電所は超スピードで戦列に復帰させました。
 いずれも自分たちのことはさておき、「地域の復興は電力から」という使命感がそうさせたものと思っています。

 

 

次回「電力システム改革に抱いた懸念」へ続く

 

これまでの連載

第1回「2011年3月11日14時46分」
第2回「別世界で暮らしたい」
第3回「肺結核で1年半の病院通い」
第4回「二人で仙台の街を何時間も歩き回る」
第5回「子持ちの青年部長」
第6回「基幹システムの設計を任される」
第7回「みんなに助けられた新潟県中越沖地震」

第9回「電力システム改革に抱いた懸念」「それでも地域にこだわる」

第10回「東北はもっと怒っていい」

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